「欠片の味方」澤隆志(2012/9/11)

2018年1月20日WORKS

kakeranomikata
「欠片の味方」

-この世界は凹と凸でできている。まるでパズルのように。(山本麻紀子)

山本麻紀子の作品を初めてみたのは、青山の小さいギャラリーのグループ展だった。入り口脇のちいさなクローゼット?の引き出しの中に写真や短文が入っているという趣向。突出した個性とは言い難かったけれど、今を思えば、現在に繋がる「欠片」への偏愛が伺いしれるものだった。

京都市立芸術大学、同大学院での作品制作はほとんど鑑賞できていなかったが、作家のHPに連載されていた短文日記が秀逸だったのを覚えている(リンク希望!)ありふれて退屈な日常をファンタジーに変える小さな切断面、twitterの流行る遥か前に連日更新していたそれは、アーティストの「入力」の能力を発揮していた。

渡英後の作品は、よりプロジェクトベースなものになった。異国の地で「出力」の方法と加減を得た事となったのだろう。エイリアンである自分が、イギリスの普通の街にかかわり合う中で生まれたもの。「lost and found 」「through the window」はそれがもっともシンプルに、力強くでている。

「lost and found」はロイヤルメールの不在票をハックしたパフォーマティヴな作品である。イギリスでは不在票が届いたら所定の場所まで取り入いく必要があり、この作品ではそっくりの不在票を媒体にして、物と物、人と人をつなげてちょっとした物語を強制演出しようというのである。

なんとなく物語を孕んでいそうなエエもんを拾い、なんとなく物語が広がりそうな物件に不在票を投函。ロンドンの「欠片」が見ず知らずの他人をシャッフルし、タグづけし、アーティストはそれぞれにギャラリー(を改造した受け取りカウンター)で全力対応する。その様はビデオに収められ、映像作品として独立した。

映像はカメラのファインダーで世界から分断され、編集時に前後が切り取られて「欠片」となる。その欠片は互いにくっつきたがっていて、本質的に編集を欲している。そして、編集されたそれを見る我々は、スクリーンという世界の欠片を材料に、スクリーンの外側にある我々の世界との意外な関連に恐怖したり涙したりするものだ。「市民ケーン」も「欲望」もそうでしょう?「グージョネットと風車小屋の魔女」や「You are here」もそうだったよね?

2012年9月末まで水戸芸術館で開催されている山本の個展では、「lost and found」「B6」「mendhing mito」と、ロンドンの欠片が水戸まで作用するロードムービー3部作のような構成。「mending mito」では一部被災地でもある水戸市において、復興や復旧でもない”お直し”という寄り添い方でロンドンの欠片を水戸のお直し所にフィットするプロジェクト。傷跡を消し去る事無く、対話を経てその跡を直す/飾る。山本はクリエイターというよりネットワーカー的立場で、お直し所の市民の悪ノリや自発性を静かに待つ。

コンセプトブックの段階で拝見した「through the window」もその自発性が主役の作品だ。光や情報の入り口である窓、これは住人にとっては生活スタイルを演出するスクリーンであり、山本がチョイスしたエエ感じの窓の住人と交渉し、山本が勝手に夢想したストーリーを、当の住人に自演してもらうというもの。近い将来、展覧会で鑑賞して、あたらしい物語の欠片に出会う事ができたらと期待。

2012/9/11  澤隆志